旧大分県道28号線・鹿倉隧道と舞鶴橋

 

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耶馬溪側旧道分岐 旧道のアスファルト路面

鹿倉隧道への旧道は現トンネルの200mほど手前のドライブイン脇から分岐している。
旧道の分岐点は新道の築堤とドライブイン駐車場の盛土に挟まれて、 まるで堀のような状態になっているが 一部に埋没を免れたアスファルトが露出しており、 そこが旧道の路面だと分かる。 この駐車場の敷地内には頌徳碑が建立されており、隧道開鑿に至る経緯を教えてくれる。 碑文(と町誌)によれば鹿倉隧道を含む新道(耶馬溪道路)は明治22年着工、様々な困難を乗り越え明治24年に開通したとの事だ。
 
村上田長頌徳碑

耶馬溪道路開鑿の恩人 村上田長翁

明治の初年、この辺りは深山幽谷の中であった。その難所をきりひらき、新しい道をつけ 豊後森と豊前中津を結び、産業の開発、文化の交流をはからんと、雄大なる企画をたてた人があった。
すなはち時の玖珠郡長村上田長である。
村上郡長は 中津藩医村上家の九代目で明治十八年、大分県下最初の中学、大分中学校 (現上野丘高校)の創立に当り、初代校長に抜擢された俊材である。 さらに翌十九年には当時郡勢とみに振るわなかった玖珠郡振興の重責を負わされ 郡長に任ぜられた。かくて明治二十二年この耶馬溪道路の開鑿に着工したが、 路線選択の紛糾 反対をはじめ県会予算支出中止などの難問題に遭遇、 その苦境の中に村上郡長は、初志貫徹のため自ら募金募集の先頭に立ち、 地元村民の労力奉仕を乞うなどして、懸命に此の難工事完遂に挑戦した。 しかし完成をまじかにして県会は、郡長非職の暴挙にでたのである。 斯うした村上田長の献身的努力に依り、ついに開鑿された耶馬溪道路の歴史をふりかえり、 その恩恵に対し昭和十五年村上田長頌徳碑が建立されたのである。
さらにこのたび国道二一二号線として整備されたのを機会に 頌徳碑一帯の美化工事が完成、その遺徳永く敬仰されるに至った。

昭和五十九年十一月 田長公園 村上田長顕彰会


 
鹿倉トンネル(昭和48年竣工) 耶馬溪側坑口

旧道から分岐した現道は上の写真を見ても分かる通り、 築堤で上り詰めている為トンネル坑口も旧隧道より高い場所に口を開けている。 向かって右下に旧隧道の坑口があるのだが、 薮が深く写真には写っていない。

 
現道から見た鹿倉隧道

標高が低い分だけ幾分旧隧道の坑口の方が手前に位置している。 現道から見る限り旧道は薮がかなり深そうなので、ここからから直接下りられないか検討してみたが、 彼我の高低差は5m程度あり傾斜も垂直に近いので断念した。
   

耶馬溪側の旧道は200mに満たないが視界が利かない程の激薮で、 しかも路面が川になっており廃道としての嫌悪度(?)は高い。 これほど薮化しているにもかかわらず、 所々にアスファルトが露出していたので元々は舗装路だったのだろう。
 
鹿倉隧道 耶馬溪側坑口
明治24年竣工、延長118.5m、幅員3.9m、高さ3.5m

旧隧道は岩盤を掘り抜いたままの素掘り隧道だ。 坑口の岩肌が安定しているのか、とても頑丈そうに見える。 硬い岩盤の掘削には非常な困難を要しただろう。 明治24年竣工と言えばかの「チギリメン隧道」と同い年だが、 鹿倉隧道は昭和48年まで82年間もの長きに渡って利用された。

   

洞内は薮だらけの明かり区間よりは遥かに快適だが経年相応に痛んでおり、 巻き立てられたコンクリートや岩盤の剥離、湧水が随所に見られた。 玖珠に向けての上り片勾配になっている為、 玖珠側から流れ込んだ水が鹿倉隧道を通り抜け耶馬溪側へと注いでいる。
 

玖珠側の出口の掘割りは明らかに人為的に持ち込まれたと思われる異常な量の廃木で埋められていた。 非常に足場が悪く、通り抜けるどころか坑口撮影の為に洞外に出る事さえ難しい状態だ。
   
玖珠側の坑口丈上部 玖珠側からみた洞内

   
鹿倉トンネル(カーブの矢印の下に旧隧道がある) 現道から見える鹿倉隧道の坑口上部

玖珠側の新旧坑口の位置関係も耶馬溪側と同様、 旧隧道の方ががやや全面に坑口があった。 新旧のトンネルにしては珍しく旧隧道の方が位置的に低いだけでなく、 延長も長くなっているようだ。
 
鹿倉トンネル 玖珠側坑口




 
明治36年測図「耶馬溪」(1/5万地形図)
※カーソルを合わせると昭和2年要部修正に変わります

探索からしばらくして耶馬渓の旧版地形図を取り寄せてみると、 明治の地形図には鹿倉隧道の北側に「舞鶴橋」という名のループ橋が描かれていた。 次の版(昭和2年要部修正)ではループは姿を消し、 隧道北側の線形は現県道とほぼ同じ形になったが、 舞鶴橋は橋の部分だけが意味有りげに残っている。 道路の付け替えによって取付け道は失われ、 橋だけが残っていたという事なのだろうか?
この昭和初期までに行われたルート変更の目的は、 谷に沿ってヘアピンカーブを設け 舞鶴橋北の急勾配区間(8%)を緩和する事にあったと思われる。

 
舞鶴橋

これは最近入手した在りし日の舞鶴橋の姿である。 石造のアーチ橋で、確かに橋はループを形成しており、ループ橋らしく勾配は非常に緩やかに見える。
中津市のホームページの中に「村上田長と深耶馬溪」という非常によく出来た紙芝居があり、 これによると奇岩、絶壁からなる急峻な勾配の渓谷に道を通す為、 鶴が舞い弧を描く姿をヒントにループ橋が考案され、 建設されたのが舞鶴橋なのだそうだ。
明治24年に開通した舞鶴橋は、おそらく国内最古のループ橋だったのではないか。
   

現在、舞鶴橋は一体どうなっているのか。 新旧地図を照らし合わせた結果、鹿倉隧道の北200mの位置、 それは頌徳碑が建っている駐車場が舞鶴橋の跡地に一致している。 この駐車場の敷地はループの円形部分を丸ごと埋め立てて造成されているようだ。 つまり舞鶴橋はこの地下にあったはずなのだ。
橋は埋もれているのか、既に破壊されているのか。 それはわからない。残念ながら現地でも舞鶴橋に関する遺構を見付ける事は出来なかった。
 


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